「8月25日で13年になります。その3日前の8月22日が、博美の誕生日です。25日に殺されましたが、15歳になったのはたった3日という命でした」
2013年8月25日、三重県朝日町で花火大会から帰宅中の女子中学生が、当時18歳の見ず知らずの男子高校生に殺害された上、自宅から約750m離れた空き地に遺棄されました。
命を奪われたのは、当時中学3年生だった寺輪博美さん(15)。
事件から数日後、真夏の屋外に放置された博美さんは、変わり果てた姿で発見されました。
(寺輪 悟さん)
「私は当時45歳。妻もこのとき私と同じ45歳でした。(妻は)看護師です。そしてお兄ちゃんは名古屋の大学、そこで寮で1人で生活をしていました。大学1年生です」
「お姉ちゃんは高校2年生。大学進学を決め、それに向けて一生懸命頑張っている最中でした」
「そんな中、博美は中学3年。8月25日、普通に花火大会に行き、どこにでもある光景です。そのまま花火大会の帰りに、1人の加害者に目を付けられ、茂みに連れ込まれて、口を押さえられて殺されました。死因は窒息死です。犯人は事件から半年以上も経った、平成26年(2014年)3月に逮捕されました」
「逮捕容疑、新聞の見出し、全国に流れた罪名は“強盗殺人”でした。そして裁判が終わり、5年から9年という不定期刑。当時、少年法改正前でしたから、あまりにも軽い刑で終わりました」
(寺輪 悟さん)
「帰りが遅くなろうが何をしようが、悪いことをする子ではありませんでしたから。普通の中学生ですし、頑としてそんな誘惑には乗らないだろうというような自負もありました。ですから、本当に彼女が自由にした時間は、ごくわずかな時間だったというふうに思っています」
「そんな中、事件に巻き込まれてしまいました。それでも私たちはまだ、『どこかにいるんだろう』ということで、全然危機感はありませんでした」
「『ふらっと帰ってくるだろう』、、、とても友達も多く、幼馴染もたくさん地域に住んでいますし、どこの家族とも親ぐるみで付き合いをしていました。私の幼馴染もいますし、後輩もいます。ですから、何の疑いもありませんでした」
「ところが、高校受験を前に、博美は塾というものに通い始めました。そこの塾から電話がかかってきたんです。『今日は博美さんが来ていない』」
私は、それを聞いてゾッとしました。そんなサボることはありませんでしたから、『何かおかしいんじゃないか』と姉に聞き、いろいろ連絡を取ったんですが、携帯は鳴るんですけど電話は出ません」
家族や友人と手分けして探しても一向に見つからず、手がかりを求め警察へ相談します。しかし、ここから事態は予想もしなかった深刻な方向へと動き出します。
(寺輪 悟さん)
「花火大会の日に、(家族と)LINEでやり取りをしたそうです。それを機に連絡が取れなくなった。だから四方八方を探しました。もちろん幼馴染のところも、友人たちも、みんな手分けして探してくれました」
「しかし、一向に見つかりませんでした。それでもまだ、事件に巻き込まれるという自覚はありません。思いもよらない」
「とうとう探すところがなくなってしまったものですから、四日市の警察署に夜に行きました。『娘がいなくなったんだから、ちょっと探してくれないか』『何か、どこかで保護された連絡はないか』」
相談を受けた警察は、寺輪さんら家族に寄り添い、博美さんの行方を探します。
(寺輪 悟さん)
「『(情報は)ありませんね、なら探しましょう』と。夜にもかかわらず、四日市の警察署は、快く対応してくれました。それから、ちょっとずつ事件に関わっていきます」
「ここからは事件発覚からの話です。何度か警察とやり取りをするうちに、『警察犬を出す』というような連絡もありました。
『じゃあ犬を出したらどうなるんだ。警察犬を出したとしても見つかるわけない』と」
(寺輪 悟さん)
「まだそこで、私は能天気だと思っています。そして仕事中、1本電話があります。『娘さんらしき遺体が発見された』と…、それでもまだ私は『博美ではない』と思いました」
「警察官の方からは、『家族4人で警察署に来てほしい』というような連絡を受けました。ですから私は仕事を切り上げ、早めに自宅に帰ろうとしたところ、1キロ先からも、今もまだその光景は覚えているんですけども、赤色灯を並べた生活道路に、いっぱいの警察車両が停まっていました」
「規制線が張られ、上空にはヘリがブンブンブンブンと飛んでいます。『なんだこれ』って。まだ私は事件とは無関係だと思っています。認めたくないですよね、ここまで来ても」
「そして身支度をして、四日市北警察署に向かいました。名古屋のお兄ちゃんも電話で呼んで、四日市北警察署で合流しました」
「ものすごい報道の数です。中継局もいました。『ただ事じゃないんだな』と。しかし、まだその時点で私たちは身元が分かっていませんから、誰も報道関係は声をかけることはありません」
(寺輪 悟さん)
「そして一室に家族4人、2時間か3時間閉じ込められました。その間、何が起こっているのか全然分からないんです」
「やっと扉が開いたと思ったら、
『四日市北署には死体の安置所はありませんから、少し離れた南署へご同行願います、そこに御遺体があります』
というような連絡を受け、私たちは警察車両に乗り、四日市南署に行き、警察官の方に連れていってもらいました」
「もう辺りは真っ暗です。どこに何があるのかも分からない状態、初めて行きました、四日市南署」
「そして私たち家族4人は、車を降りました。降りた途端、すごい匂いがします。死臭です。本当に嫌な匂いです。人が死んだときの匂いです。私は生まれて初めて感じました。でもそれが死臭だと教えられたわけではないんですけども、それに気づきました」
「私はお兄ちゃんとお姉ちゃんに、とりあえず車に乗っていてと、パパとママが行ってくると。だからお前たちはここで待っていろ、と警察官の方に頼み、私と妻2人で死体安置所に行きました」
「安置所が近くなるにつれて、ものすごく匂いが増します。嗅いだこともないような嫌な匂いです。扉を開けました。その匂いが何千倍にもなります。とてもじゃないけど、素面じゃいられない。私は鼻と口を覆いました。妻も同じです」
(寺輪 悟さん)
「そして係の方が、台の上の袋についているチャックを開けてみました。匂いがまた増します。すごい匂いです。開けた瞬間、私の目に入ったのは、手はバンザイ、足はM字、体中パンパンに腫れています」
「今年のように暑い夏でしたから、2日も3日も外にいれば、40キロも満たない体が80キロぐらいにみえる体に膨張しています」
「血管は浮き出て、そこら中からわけの分からないものが出ています。顔は左を向いて、目は閉じていました」
「それでも、そんな変わり果てた姿でも、私たちが探していた博美だということは、顔を見て一目瞭然でした。ものすごい光景です。妻も同じです。看護師ですから、遺体を見るのは慣れている。しかし、状況が違います。我が子ともなれば、また状況は全然違います」
「そして足には、ママとお姉ちゃんと博美と、博美の好きな水色の色でマニキュアを塗っていたそうです。私はそんなことは知りませんでした」
「それを見て、妻は『ママ、博美だよ、ここだよ』もう半狂乱になりました。床に這いつくばり、駄々をこねる赤ん坊のように動けなくなりました」
さすがにきつい
(寺輪 悟さん)
「私は妻を抱え、『間違いなく探していた博美です、私たちの娘です』とその場を妻を抱えて後にしました。外に待ち構えていたのは、お兄ちゃんとお姉ちゃんです。『どうだ、博美なのか』」
「私は即答はできませんでした。とりあえず妻を車に乗せ、そしてお兄ちゃんに『博美なの、会わせろ』と。私は仕方なく頷きました。『そうだった』と」
「お兄ちゃんは『会いたい、会わせろ』と。お姉ちゃんもそうです。『博美なの、博美なの、本当なの、この目で見る』」。
「しかし私はどうしてもあの光景は、お兄ちゃんとお姉ちゃんに見せることはできなかった。それが合っているのか間違っているのかは、今でも分かりません。でもあの光景だけは、この可愛い顔からは想像もできないぐらい無残な姿だったということです」
「お兄ちゃんは殴りかかりに来て、私と取っ組み合いの喧嘩になります。半ば力ずくで私は2人を車に押し込み、警察官の方に『車を出してくれ』と。
『いいんですか』
『いや、いい。とにかく出してくれ』
と言ってその場を後にしました。これが博美とやっと会えたときの状況です」
最愛の娘の無残な死、という受け入れがたい現実に直面した寺輪さんたち家族。しかし、そんな遺族を待っていたのは、マスコミによる執拗な取材というさらなる苦痛でした。
「警察を後にし、自宅に帰ろうとすると、次は報道関係です。県外、県外、県外、貸切、貸切、貸切、貸切、貸切です」
「黒塗りハイヤー、最低でも6台ありました。20人はいたでしょう。私たちは家に入ることもできず、そのまま素通りをしていきました」
「そしてビジネスホテルに泊まり、家族4人で3週間そこにいることになります。テレビをつければ、あることないこと、全国放送で事件のことを取り扱っています」
「なんの真実もないのに、間違った報道をバンバンバンバンされます。そこで一番驚いたのが実名報道です」
「加害者には人権がある。死んでしまった者には、もう人権は一切ありません。だから何をしてもいいんです。そこに未成年は関係ない。だから実名がバンバンバンバンと報道されます」
「博美が、本当の意味で葬式が終わり、荼毘に付し家に帰ったのは3週間後です。もう9月の半ばでした。それぐらい、私たちは家に寄り付くこともできませんでした」
「一番大変だったのは、まずマスコミ対策です。奴らはしつこい。そして加害者不在ということで、一体事件で何があったのか分からない。ですからそれをエサにして、過熱報道がヒートアップします」
「そして被害者の家に、容赦なく押し寄せます。そのあり方にも問題提起はいろいろしています。だいぶ今では改善されました。しかし現時点、私たちのときには、すごい報道の数でした。葬儀の中にまで、友人を装って入ってきた者もいます」
「葬儀場から出る私たちを撮るために、最後まで葬儀場で粘ってきた記者たちもいます。葬儀場の方は、『いつまでもいてもらっても結構ですよ』と、すごく優しくしてくれたことを今でも覚えています」
「しかしそんなことに甘えてもいられずに、友人の車と3台で駆け出して、一か八かでそこを飛び出しました。マスコミは本当にひどいのが現状です」
「皆さんのご家庭なら、どういうふうにマスコミ対策をするでしょう。一度考えてみてください」
「父親には父親の悲しみ、母親には母親の悲しみ、お兄ちゃん、お姉ちゃんにも悲しみ方がいろいろ違います」
「まず親の私は自分を責め、普段生意気なことを言ったけども、結局は博美を救ってやれなかった。やはり自分を責めます。これは親としては当然のことです」
「母親もしかり、時間のゆとりが一切なくなり、眠ることもできず、食べることもできません。泣いてばかりです」
「加害者が分かっていませんでしたから、何があったのか全然分からない。一体博美の身に何が起こったのか、どうしてこんな目に遭ったのか…」
「しかし博美がいなくなったことは事実です。誰かに殺された。そのことだけを考え、悲しむ毎日です」
「私は、17キロ痩せました。食べなくなると人間、歯も減ります。想像を絶する苦しみと、残された遺族は向き合っていかなければいけません」
「みんな悲しみ方が違うんです。その悲しみを乗り越えるにはどうしたらいいのか。いろんなやり方があるんです。これはケースバイケースで、簡単に当てはまるものでもありません」
「優しい言葉で言うことでもありませんけども。とにかく悲しみの連鎖が家の中には溢れている、ということを分かってほしいと思います」
見ず知らずの少年に殺害された博美さん、そして遺族の無念を晴らすべく警察の懸命な捜査が行われたと、寺輪さんは振り返ります。しかし「未必の故意」という司法の壁が立ちはだかります。
(寺輪 悟さん)
「最初の逮捕容疑は強盗殺人。しかし『未必の故意』、博美は死んでいますから喋りません」
「だから、加害者の言うことを鵜呑みにするしかありません。これが今の司法です。未必の故意を立証することができない、加害者が56す気がないと言えば56す気がない、疑わしきは罰せず、この法則がある以上、罪名が変わることはありません」
「ですから、検察の方もかなり悔しい思いをしました。もちろん私たちも悔しいですけども、警察の方も同じように悔しがっていました」
「傷害致死、窃盗、これで裁判が争われるようになります。少年法改正前ですから、満期でも10年です。裁判というものは初めてでした」
「ですから、博美の仇を取る、遺族の無念を汲んでくれる、そのような裁判だと私は勝手に思っていました」
「そして判決は5年から9年の不定期刑です。私は満期の10年の刑だと思っていました。9年ですよ。1年減刑された。その理由を私は裁判長に言いました」
「『減刑された理由はなんですか、裁判長』
『もう決まったことですから』と私に答えたんです」
「私は納得がいきませんでした」
『説明責任があるだろう、おかしいだろう、こんなのは』
『俺には聞く権利があるんだ』
「そう言っても、裁判長は私を見ることもなく、そのまま裁判所を後にして退廷されました」
「そして損害賠償請求、昼からです。そのままスライドで行われました。裁判長は同じ。そこでまた、私は言いました」
『1年減刑された理由はなぜか、なぜ説明責任がないのか』と問い詰めました。
「しかし裁判長の口から出た答えは、
『もう終わったことですから』と、私はびっくりしました」
えぐいな
(寺輪 悟さん)
「加害者と初めて会ったのは逆送検、家庭裁判所です。逆送が妥当かどうか審議する場で私は初めて会いました」
「私たちも家庭裁判所に行き、重い扉を開けてもらうと、そこに加害者の両親が2人頭を下げ、そして真ん中に加害者が頭を下げていました。私はすぐさま殺しに行きました。飛びかかりに行きました」
「しかし屈強な刑務官、あんな奴でも人権はあるんです。刑務官はそいつらを守り、私は力ずくでそのまま退廷させられました。ですから、逆送検の話の内容は全く分かりません。しかし私は父親として、普通の感情だと今でも思っています」
「そして逆送が決まり、傷害致死、窃盗で戦いました。しかし思い描いた裁判とは全く違いました」
あー近所で殺人事件あったことみたいな言ってたやつが犯人だったやつか
(寺輪 悟さん)
「損害賠償請求のときもそうです。いくら日本の法律がそうなっているかは知りませんが、私は素直に言いました。
『一度も働いたことのない18の少年に、7700万円という大金を課すのはどうか』
『少年法で裁かれて、両親が出廷しているのであれば、両親が払うのは筋じゃないのか』私はそう聞きました」
「裁判長は、何を言っているのか分からないな、というような顔をしています」
『じゃあ、私のところの子どもが隣の車を壊せば、私が謝りに行って弁償するでしょう』
『私のところの娘がコンビニで万引きをすれば、警察に引き取りに行き、頭を下げ、コンビニに行って弁償するでしょう』
『それが親というものじゃないんですか。それが子どもというものじゃないんですか』私はそう聞きました」
「裁判長、なんて言ったと思います?『それはあなたの価値観です』と言ったんです
『そんなことはしなくても結構です』と、私はびっくりしました」
「もう開いた口が塞がらない。ただそれだけです。裁判所の常識は、社会の非常識。私はそれを突きつけるのが精一杯でした。それぐらいショックでした」
(寺輪 悟さん)
「司法の限界なのかもしれません。でも私は悔しい思いを十二分にしました。ですから皆さんが知っている以上に、裁判では踏みにじられている遺族がいる、被害者がいるということを分かっていてほしいと思います」
「テレビではひとコマふたコマしか流れませんが、あの中にはものすごく限りのない皆さんの知らないドラマがあるということを、もう一度知ってほしいと思います」
RSK山陽放送の取材に応じてくれた寺輪さん。元少年は、2023年に仮釈放されたと言います。しかし、仮釈放された場所は、事件当時少年が住んでいた町だったのです。
寺輪さんは、ドライブ中に、偶然にも元少年を目撃してしまいます。抑えられない感情が沸き上がり、車を停めた寺輪さんは頭を車の窓にたたきつけ、絶叫したと話します。
寺輪さんは、「その時偶然、妻からの電話があり、話をすることで思いとどまることができた」と、事件が遺族に落とした深い影の一端を明かしてくれました。
(寺輪 悟さん)
「(遺族になって)お前はそんな中どうしたんだ。権利条例もなく、支援もなく、お前今元気じゃないか。皆さん思っています。私は周りに恵まれた、ということに45歳の時に気づかされた。ですから今生きているというわけです」
「私がずっと勤めていた会社の親父、事件当時すぐ連絡をくれて、ホテルで会いました」
「現金で1,000万、ボストンバッグに入れて置いて帰りました。何も言わず、『しばらく休め、これだけあればゆっくりできるだろう。思い出の詰まった家が嫌なら引っ越せ、なんとかしろよ』と、優しい言葉をかけてくれました」
「妻もそうです。妻は看護師になってずっと1つの病院に勤めています。院長夫妻とも仲がいいです」
「『あそこに通うのが大変なら、うちの空いている別荘を使え。どれだけいてもいいと』。そして現金200万円を渡してくれました。すごく嬉しかったです。すごく助かりました」
「そしてマスコミが帰ったかどうか、毎日毎日私の友達は家の周りを見回ってくれました」
ポンと1000万置いてく社長なんだよそれ
200万の院長もおかしいよ
「そして何より家族、すごく団結心が強かったです。ほかのご家庭がどうなのか私は分かりませんけども、すごくいい関係を築けていた、何でも喋れるようになったんです。ですから3つの誓いを立てました」
「後追いは絶対にしない」
「そして加害者の家には何があっても行かない」
「そしてアルコールをやめる。酒に逃げるな」です。
「そういう3つの誓いを立てました。その3つの誓いを立てることによって、なんとか奮い立たせて歩くこともできるようになりました」
「3つの誓い」を胸に、前を向こうとする寺輪さんでしたが、遺族が自分たちだけで社会復帰を果たすことの難しさも痛感していました。被害者遺族を取り巻く「孤立」という深刻な問題について、胸の内を明かします。
(寺輪 悟さん)
「やはり誰かの力がいるんです。そう考えたときに、私は恵まれている、私の場合はこれで良かった、そう考えるようになりました」
「もしも、これが母子家庭ならどうでしょうか。父子家庭ならどうでしょう。身寄りがない方ならどうでしょう。嫌われている方なら、友達がいない方なら。そういうような思いに至ったんです」
すぐ日経平均に入れてたら3億やんけ
ない袖は振れないからな
実際に全額は払われない
「しかし、何らかの社会との関わりを断たれるということは、やはり孤立するということなんです。現に妻は十分悲しませてやることはできませんでした。いくら仲のいい家族でも、自分たちで精一杯なんです」
「そして私たち家族、私やお兄ちゃんお姉ちゃん、少しずつ社会と関係を持ち始め、私は12月末には社会復帰しました」
「お兄ちゃんも大学に行きました。お姉ちゃんも高校に行きました。そしてやっと妻は、私たちの面倒を見る必要がなくなったんです。そこからやっと悲しむことができた」
「私は非常に後悔しています。悲しいときに泣けない。泣きたいときに泣けない。これが一番辛いんです。何も考えずに悲しませてやりたい。その思いで『犯罪被害者支援条例』というものに私は目をつけました。ただそれだけです。さすれば自分で区切りをつけ、社会と関わりを持つようになると私は思っています」
「区切りをつけるのは大変難しいことです。妻は外に出るのに10年かかりました。それが早いのか短いのかは分かりません。でも(勤務先の)院長夫妻は、妻がいつ帰ってきてもいいように、厚生年金をずっとかけてくれていました。そんなことが普通できるでしょうか」
肩がぶつかったとかそんな話か?
それだけが救いや













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