たぶん長くなる。
でも、この話はずっと誰にも話せなかった。
だから今日だけは、画面の向こうの誰かに聞いてもらいたい。
桜は誰にでも平等に咲く。
新しい制服も、新しい教室も、新しい教科書も。
全部が希望に満ちているように見える。
でも、その希望が眩しすぎる人間もいる。
ワイは、その一人だった。
人前で話すのは苦手。
笑いの輪に入る勇気もない。
昼休みは本を読んでいるふりをして、時間が過ぎるのを待つ。
ネットなら「チー牛」の一言で終わるような人間。
そんなワイが、努力だけを頼りに県内でも有数の進学校へ入学した。
合格発表の日。
マッマはワイより先に泣いた。
「頑張ったね。」
その四文字だけで、報われた気がした。
あの日までは。
五文字だろ!
すぐに気づいた。
ここは秀才の集まりじゃない。
「努力が当たり前」の人間が集まる場所だった。
休み時間には大学数学の話。
先生が問題を書き終わる前に答えが飛ぶ。
模試の判定を笑いながら語り合う。
ワイだけが、その教室で静かに息を潜めていた。
「普通」でいることが難しかった。
ワイにはASDがある。
ADHDもある。
トゥレット症候群もある。
そして、中学生の終わり頃から鬱を抱えていた。
誰にも見えない荷物を背負って、毎日学校へ向かっていた。
病気のバリューセットかっ!
黒板を見ようとする。
でも廊下を歩く音が気になる。
隣のシャーペンをノックする音が耳から離れない。
誰かの咳。
窓を叩く風。
時計の秒針。
世界中の音が、一斉にワイへ押し寄せてくる。
「ちゃんと聞いてるか?」
先生のその一言で現実へ引き戻される。
教室中の視線が刺さる。
たった数秒なのに、一日分の体力が消えていった。
お前の方がうざい!
喉が勝手に音を出す。
肩が跳ねる。
必死に抑え込もうとしても、体は言うことを聞かない。
「またか。」
誰かが小さく笑う。
その一言は教室ではすぐ消える。
でもワイの心には、何年も残った。
物心ついた頃には、マッマと二人だった。
朝はまだ暗いうちに仕事へ向かい、
夜は星が出る頃に帰ってくる。
それでも玄関を開けると、
「おかえり。」
その一言だけは、どんな日も変わらなかった。
子どもの頃は、それが世界中の「普通」だと思っていた。
あ、ただいま
布団に入るたび、学校で言われた言葉が頭の中で繰り返される。
「もっと集中しろ。」
「またチックか。」
「そんなこと気にしすぎ。」
誰も悪気はなかったのかもしれない。
でも、優しさで人は救われるように、
何気ない一言で、簡単に壊れてしまうこともある。
眠れない夜、ワイはスマホを開いた。
SNSは眩しすぎた。
みんな笑っていた。
みんな楽しそうだった。
その光が、ワイには痛かった。
だから気づけば、おんJを開いていた。
流れてくるのは、くだらない雑談。
野球。
ゲーム。
「草。」
「寝ろ。」
「イッチ、頑張れ。」
現実では誰にも名前を呼ばれないワイが、
ここでは「イッチ」と呼ばれていた。
名前も知らない。
顔も知らない。
それでも、名無したちはワイの書き込みに返事をくれた。
たった数文字だった。
でも、その数文字が、
教室でどんな励ましの言葉よりもワイは温かく感じた。
中学の頃と同じように勉強した。
いや。
むしろ、それ以上だった。
夜中まで机に向かって、眠い目をこすりながら問題集を開いた。
それでも結果は、下から数えた方が早かった。
「あと2点で満点だった。」
「凡ミスしたわ。」
そんな会話が飛び交う。
ワイは答案を二つ折りにして、鞄の奥へ押し込んだ。
誰にも見られたくなかった。
一番見られたくなかったのは、自分自身だったのかもしれない。
電車の窓に映る自分を見た。
疲れた顔。
猫背。
眠そうな目。
「何のために頑張ってるんだろう。」
その言葉だけが、何度も頭の中を回っていた。
カレーだった。
「今日はちょっと奮発した。」
マッマは笑っていた。
その笑顔を見た瞬間、試験の話はできなくなった。
「どうだった?」
その質問が怖くて仕方なかった。
毎日カレーかい!
嘘だった。
ワイは昔から嘘が下手だった。
でも、その日だけは、嘘をつくしかなかった。
マッマは何も聞かなかった。
たぶん、全部気づいていたんだと思う。
風呂から上がってリビングへ行くと、マッマが電卓を叩いていた。
家計簿だった。
封筒から千円札を何枚も数えている。
ワイに気づくと、慌ててノートを閉じた。
「もう寝なさい。」
その声は、少しだけ疲れて聞こえた。
東京大学。
京都大学。
医学部。
紙には、そんな名前が並んでいた。
周りは当たり前のように書き始める。
ワイのペンだけが止まっていた。
未来を書くには、自信が足りなかった。
駅まで歩いていると、クラスメイトが笑いながら話していた。
「将来は研究者かな。」
「海外も面白そう。」
その輪に入る勇気はなかった。
追いつくこともできなかった。
気づけば、一人で歩く速度だけが少し速くなっていた。
競歩部の監督「あの子はいいね…」
相変わらず、野球のスレやゲームのスレが立っていた。
くだらないことで笑って、
知らない誰かと一言だけやり取りをする。
現実ではうまく笑えないのに、
画面の前では少しだけ笑える自分がいた。
「草」
たったその一言が、心に残った。
布団の中で天井を見つめながら考えた。
もしワイが、普通の人間だったら。
もし障害がなかったら。
もし父親がいたら。
そんな「もし」を数えても、朝は必ずやってくる。
窓の外が少しずつ明るくなる。
また一日が始まる。
それでも制服に袖を通した。
理由は一つだけだった。
玄関で待つマッマに、心配だけはかけたくなかったからだ。
……慣れたというより、諦めた。
昼休みは相変わらず一人。
誰かと話すこともなく、窓の外を眺めて時間が過ぎるのを待った。
人に囲まれているのに、ずっと一人だった。
「最近、大丈夫か?」
その一言で、何かが崩れそうになった。
「大丈夫です。」
気づけば、そう答えていた。
日本人が一番つく嘘は、
「大丈夫」なのかもしれない。
駅のホームで電車を待っていた。
目の前を電車が通り過ぎる。
風だけが顔に当たる。
ふと、思った。
「明日も同じ一日なんだろうな。」
そんな考えが浮かんだ自分が怖くなって、慌てて首を振った。
おいやめろ!飛び降りるな!
「今日はハンバーグだよ。」
子どもの頃から、ワイの好物だった。
でも、その日は一口も味が分からなかった。
箸だけが、ゆっくり動いていた。
カレーじゃねーのかよ!
「学校、辞めたい。」
静かな部屋だった。
時計の音だけが響いていた。
マッマは何も言わなかった。
ただ、静かにワイの顔を見ていた。
マッマはゆっくり口を開いた。
「辞めてもいい。」
その言葉に、思わず顔を上げた。
「でもね。」
「生きることだけは、絶対に辞めないで。」
その瞬間、張りつめていた何かが切れた。
ワイは子どもみたいに泣いた。
声を上げて泣いたのは、何年ぶりだっただろう。
リビングから、小さな物音が聞こえた。
喉が渇いたふりをして部屋を出る。
ドアの隙間から見えたのは、
電卓を叩くマッマの背中だった。
机には請求書。
家計簿。
封筒。
そして、小さな涙。
「どうしたら、この子を守れるんだろう……。」
その独り言は、
今でも耳から離れない。
明日また見とくわ
見てはいけないものを見てしまった気がした。
苦しいのはワイだけだと思っていた。
でも違った。
ワイが苦しい以上に、
マッマは毎日、一人で戦っていた。
その事実が、胸を締めつけた。
また、おんJを開いた。
「人生終わった」
そんな適当なタイトルのスレが立っていた。
みんな好き勝手なことを書いていた。
「終わってから言え。」
「まだ高校生なら何とかなる。」
「今日はもう寝ろ。」
画面越しの、たった数文字。
それだけなのに、不思議と肩の力が抜けた。
名前も知らない誰かの言葉に、
救われる夜があった。
鏡の前に立った。
目は腫れていた。
それでも制服に袖を通した。
「行ってきます。」
玄関でそう言うと、
マッマはいつも通り笑った。
「いってらっしゃい。」
その笑顔の裏にあるものを、
ワイはまだ全部知らなかった。
でも、一つだけ決めた。
もう少しだけ、生きてみよう。
その「もう少し」が、
人生を変える最初の一歩になるなんて、
この時のワイは、まだ知らなかった。


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